仏教用語集

浄土真宗

本尊

本尊とは信仰のよりどころとなる仏様のことで、浄土真宗は派を問わず全て阿弥陀仏一仏であります。名号本尊としては、「南無阿弥陀仏」の六字名号のほか、「南無不可思議光如来」の九字名号や、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号などがあります。

南無阿弥陀仏

もとはインドの言葉で、「阿弥陀」は、限りない命(無量寿)と、はかりしれない光明(無量光)をあらわします。また、「南無」には「頼りにする、信ずる、帰依する」といった意味があることから、「南無阿弥陀仏」とは「無限の命と光明をかねそなえた仏様、あなたを信じ、頼りにします」という意味になります。

なお、阿弥陀仏は阿弥陀如来ともいいますが、「如来」とは「真如の世界から救うために来てくださる」ということを意味しています。

経典

浄土三部経(「仏説無量寿経」 「仏説観無量寿経」 「仏説阿弥陀経」)を根本聖典としておりますが、なかでも「仏説無量寿経」は、親鸞聖人が「真実の教えはこの経典である。」と位置付け、浄土真宗ではもっとも重要なものとされております。

「仏説無量寿経」には、衆生を救わずにはおかないという、阿弥陀仏の四十八の誓願(誓い)が説かれておりますが、なかでも十八番目(本願)はその根本をあらわすもので「念仏往生の願」とも呼ばれ、阿弥陀仏の真実心を領受し、念仏をとなえる身となりましたら、必ず浄土へ生まれることができるのです。

「仏説観無量寿経」は、お釈迦さまが、悩み苦しむ人にとって念仏が大切あることを説いております。

「仏説阿弥陀経」は、極楽浄土の荘厳たる様子が描かれ、念仏の行をすすめ、さらに十方の諸仏たちが念仏による救いの正しさを証明していることを説いております。

宗祖 親鸞聖人

平安時代の末期、世は貴族社会から武家社会へと大きな転換をとげようとして、戦乱と天災があいつぎ、乱れに乱れていました。その頃、京都郊外に生まれた親鸞聖人は、九歳で出家して比叡山に登り、修学に励みました。しかし、聖人はその修行でさとりを得ることはできませんでした。また、出家して修行できない者はさとりと無縁なのか、という疑問もありました。

そんな苦悶の日々の中、夢のお告げなどもあり、聖人は二十九歳で比叡山を下り、京都吉水におられた法然上人について浄土教を学びます。これは、阿弥陀仏を一心に念ずること(専修念仏)によって、仏の慈悲の力が、わたしたちを浄土へ導いてくださるという教えです。

しかし、念仏の教えは時の権力の弾圧を受け、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流されました。のちに許されてから関東に移り、約二十年のあいだ教化活動に励まれました。そこで、多くの人々と語らいながら、念仏の信仰をいっそう深めていかれたのです。そして六十二、三歳の頃、京都にもどられ、著述に専念し、九十歳で亡くなりました。それまでの教えを受けた子孫や門徒たちの努力によって、聖人の念仏の教えは次第にひろまっていき、親鸞聖人は宗祖と仰がれるに至ったのです。

本山

本願寺派の本山の西本願寺と、大谷派の本山の東本願寺は、ともに京都市下京区にありまして、それぞれ「お西さん」「お東さん」の呼び名で親しまれております。

在家仏教

親鸞聖人は、自らを「愚禿」といわれました。還俗させられて越後に流されてからのことです。

愚禿というのは、禿頭で出家のようでも、愚かな俗人だということです。その愚かな俗人という自覚から、「絶対他力の教え」を確立されたのです。ですから、浄土真宗はもともと在家仏教だったのです。阿弥陀如来を信じ、念仏する者にとって、仕事も、日常生活も、それがそのまま如来への報恩として光り輝くのです。

信心と念仏

一般的には、われわれが思いをこめて神仏に祈ることを信心といいますが、真宗ではそのようにはとらえません。

信心とは、どんなことがあっても、必ず浄土へ救うという、阿弥陀仏の本願を聞きひらいた、疑いのない心をいうのです。すなわち信心は、阿弥陀仏よりたわまる真実心のことであり、煩悩に根ざした凡夫のはからい心をいうのではないのです。凡夫が往生するのには、この仏の真実心をいただくこと以外にはないのです。

親鸞聖人は、往生するための「行」は凡夫にかわって阿弥陀仏が修し、凡夫がとなえやすいように、「南無阿弥陀仏」の名号として与えてくださるものであるのです。そしてその名号を素直に受けとるという「信」も阿弥陀仏のはたらきによりいたり届くものであるとし、凡夫の側から起こすものではないと説いております。したがって、「行」も「信」も他力回向としてあるのです。真実の信心をいただくということがそのまま、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す身となることになるのです。

絶対他力(他力本願)

他力といいますと「他人まかせ」という意味で誤解されがちですが、そうではありません。他力とは阿弥陀仏の本願力のことをいいます。

本願とは、真実の根本聖典である『仏説無量寿経』に説かれるもので、阿弥陀仏が悟りを開く前、まだ法蔵という菩薩のときに起こした四十八願(誓い)をさします。そのなかでもとくに第十八願は、「私が仏になったとき、あらゆる衆生が、私のまごころを受けとって、疑いなく信じ、私の国(浄土)に生まれようと願って、南無阿弥陀仏と私の名前をとなえるであろう。もし生まれることができないのなら、私は仏とならない」と誓っております。この誓いを、長期間の修行によって成しとげ、悟りを開いたのが阿弥陀仏であります。

このように衆生に「南無阿弥陀仏」という名号を与えて救うという阿弥陀仏の本願のはたらきを、他力というのです。

しばしば、他人まかせで何もしないという意味で「他力本願」が誤用されることもありますが、本当は、むしろ、阿弥陀仏のほうより智慧と慈悲を恵まれることによって、力強く、明るく、精一杯生き抜く人生が開かれてくるのです。

悪人正機

悪人正機とは、悪人こそが阿弥陀仏の救いのめあてだとするものであります。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)という言葉が、悪人正機を語るものとしてよく知られております。ここでいう悪人とは、どんな行によっても迷いを離れることのできない救われがたい凡夫のことであります。その凡夫を見捨ててはおけないというのが本願の本意であります。阿弥陀仏の願いは、このような悪人の救済のためにおこされたと説かれております。

ただし、悪人正機の教えは、悪行をすすめるものと誤解してはなりません。真実に背を向けている悪人を、真実に向かわしめようとする阿弥陀仏の願いであることを、心得るべきなのであります。

お彼岸

お彼岸の意味

春の彼岸は三月の春分をはさんだ七日間。秋の彼岸は九月の秋分をはさんだ七日間。この期間が「お彼岸」です。では「お彼岸とは、いったいどんな日なの」こう聞かれると、正確には答えられないものです。お彼岸で思いうかべるのは、お墓参りぐらい、というのが現実なのかもしれません。

そもそも彼岸とは、呼んで字の如く彼の岸(かのきし)、つまり向こう側の岸を意味しています。彼岸は迷いや苦しみのない浄らかな世界です。

それに対して、こちら側の岸を、此岸(しがん)と呼びます。此岸とは煩悩でよごれた世界です。

また彼岸という言葉は、仏教用語です。彼岸は昔のインドの言葉のパーラミター(波羅蜜多)の漢訳「到彼岸」の略です。

お彼岸が二回ある理由

お彼岸は春と秋の年二回。春分の日と、秋分の日は、昼と夜の長さが同じです。つまり太陽が真東からのぼり真西に沈む日です。この太陽が沈む西方に浄土があると、古来より日本人は考えてきたといわれています。また、昼と夜の長さが同じということは、仏教の教えである中道の教えにもかなうものだ、という説もあります。たしかに暑くもなし寒くもなしという、彼岸の時期は一年でも季節的にはバランスのとれた日ともいえます。

お釈迦さまも、「我れは中道を行く」として苦行を放棄しました。

お彼岸は先祖の供養の日?

お墓参りといえば、どうしても先祖供養という言葉を思いうかべがちです。彼岸という言葉も例外ではありません。しかし、浄土真宗の教えでは、全ての先祖は、阿弥陀如来の功徳によって、すでに往生しているのだから、彼岸だからといって、あらためて先祖の供養する必要はないのです。だからといって決して先祖をないがしろにしているというわけではありません。先祖に感謝することによって、阿弥陀如来への報恩感謝をしているのです。お彼岸の意味にちなんで、先祖に感謝し、浄土をしのびたいものであります。くりかえしますが、お彼岸とは浄土をさす言葉です。

彼岸の浄土とは

彼岸とは浄土のことですが、その浄土とは、西の彼方にある極楽浄土のことです。これを「西方極楽浄土」と呼びます。

およそ日本人なら、たとえば、海や山に沈む、夕映えの光景を美しいと思わない人はいないでしょう。テレビなどの映像で、ラストシーンに夕映えを持ってくるのは当然といえます。その夕映えの光に満ちた彼方こそ極楽浄土にふさわしいと昔の人は考えたのでしょう。西方極楽浄土の仏さまは阿弥陀さまです。極楽とは楽しみを有する世界。安楽、安泰といいます。浄土の楽は絶対の楽で苦しみの存在しない世界という意味とされています。

お彼岸の歴史

日本には「緑の週間」とか「愛鳥週間」などさまざまな○○週間があります。江戸時代からつづくお彼岸は「仏教週間」です。ですから仏教週間○○週間のさきがけといえる週間です。

さてお彼岸ですが、この行事はインドにも中国にもない日本独自のものです。「春分」や「秋分」は暦をもつ民族ならどこにでもあります。しかし、これを彼岸といったり彼岸会を行なったりする国は日本以外にはないそうです。しかも、この彼岸の歴史はとても古いのです。いろいろな説がありますが、『源氏物語』の「行幸」の巻に「十六日、彼岸のはじめにて、いとよき日なり」とあることから、平安時代にはすでに行なわれていたことがうかがえます。また『?蝣日記』にも彼岸の記述があります。鎌倉時代の『吾妻鏡』には彼岸懺法の記述があり、武士の間にも広がっていったようです。江戸時代になると民間にも浸透し、各寺院で法要が営まれるようになったとされています。また江戸では「彼岸参り」や「六阿弥陀詣」がさかんに行なわれていました。

お盆について

なぜお盆と呼ぶのか

「お盆」は仏教行事の中でも最も大きな行事です。また年中行事としても正月と並ぶ大きな行事です。実際、盆と正月の期間は、日本全体が休日となってしまうほどです。

これだけ大きな行事ですが、なぜ「お盆」と呼ぶのかと聞かれると、多くの人が首をかしげてしまいます。じつは、この「お盆」という言葉は、日本語ではありません。中国語でもありません。お盆の正式な名称は「盂蘭盆(うらぼん)」です。「盂蘭盆」の語源は梵語(昔のインド語)のウランバナです。「盂蘭盆」はウランバナを音写したものです。ウランバナとは、ふつう倒懸(さかさまに吊り下げる苦しみ)のことです。この苦しみを救うため「百味を盆に盛り、三宝に供うればウラボンという」とあります。

もうひとつは古代の日本語の「ボニ」が語源だという説です。ボニがボンになったというわけです。ボニとは供物の品をのせる器のことです。いまでも、物をのせる平たい器をお盆とよんでいますね。

七月盆、八月盆、旧盆、なぜ三つあるのか

たとえば「お盆」はいつですか、ときかれても正確に答えられる人はいないかもしれません。なぜならば「お盆」には、「七月盆」の他に「月遅れ盆」「旧盆」の三つの時期があるからです。地域によってこのいずれかをお盆として行事をいとなんでいます。七月十三~十六日の「お盆」は、新暦による「お盆」のことです。「月遅れ盆」は八月十三~十六日です。「旧盆」とは旧暦の盆の時期に行なわれる盆のことです。現在では月遅れの八月盆が最も盛んに行なわれています。

お盆はお彼岸、花まつりと並び、最も伝統のある古い仏教行事です。お盆の行事が日本で営まれたのは飛鳥時代だとされています。斎明天皇三年(六五七)に飛鳥寺で「盂蘭盆会」が営まれ、天平五年(七三三)には公式の年中行事となりました。

仏生会(灌仏会、花まつり)とともに日本最古の仏教行事として今日まで絶えることなく続いている行事です。お盆の行事は、その後、宮中から武家社会に広がり、江戸時代になって民衆の間に広まった、とされています。

お盆のはじまり、目連尊者と母

お盆のはじまりは、『盂蘭盆経』というお経に説かれています。それはこんな話です。

お釈迦様の弟子で、特にすぐれた弟子を十大弟子と呼びます。その中に神通第一の目連という方がいました。ある日、目連さまは神通力を使って、亡くなった母がどこにいるかながめてみました。すると母は餓鬼世界で苦しんでいるではありませんか。なげき哀しんだ目連さまは、どうしたら母を救うことができるのか、お釈迦さまにたずねました。

するとお釈迦さまは「目連よ、おまえの母は、おまえには、このうえもなくやさしい母であったかもしれないが、他人に対しては施したり恵むことをしなかったのだ。その罪は重く、目連ひとりの力では、とうてい救うことはできない」と説かれました。

お釈迦さまの教え

では、どうしたら母を救うことができるのでしょうか。目連さまは重ねてお釈迦さまに教えをこいました。するとお釈迦さまは、「目連よ、七月十五日の僧自恣(出家僧が一室にこもって修行する最終日)の日、すべての僧、仏弟子たちに、食事から香油、寝具にいたるまですべてのものを供えて供養しなさい。そうすればおおぜいの僧の力によって、母を救えるであろう」とすすめました。

目連さまは、お釈迦さまの教えのとおり、おおぜいの僧に供養しました。その功徳によって母は餓鬼の世界から脱出できました。

このように、我が子を育てることによって餓鬼世界におちて母、お盆は父母の恩を知る日でもあります。

先祖は浄土に往生している

他宗においては、お盆は先祖供養、父母への孝養という考え方で、おおむね営まれているといえます。ところが浄土真宗では、すべての父母はもとより、すべての先祖は浄土に往生しているのだから、特別に先祖の供養をする必要がないのです。つまり、浄土真宗においては、お盆は先祖供養というよりも、自分の先祖に対する感謝の法要として行なっているのです。決して亡き両親の恩を忘れているわけではありません。父母の恩を偲ぶのは当然であります。恩を偲ばずにはおられない、それがお盆を迎える心ではないでしょうか。『盂蘭盆経』においても、餓鬼道の母の救い方だけを、直接に説いているわけではありません。実際、経典では多くの僧と仏弟子を供養し食物をささげることによって救われる、と説いています。お釈迦さまはここで、自分の母だけを救うという、利己的な世界を打ち破り、もっと広い世界へ出よ、と説かれているのではないでしょうか。父母の恩は深けれども、その世界のみにとじこもってはならない、ということでもあります。